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竪穴式住居 vs 攻殻機動隊
「わたしは環境が許しさえすれば、竪穴式住居に住みたいんだよ」
と、数年前、引っ越してきたばかりのYちゃんが言ったのを思い出した、急に。
その頃わたしは、まだ筋トレを始めていなかったので、どうにも気力がなさすぎる生まれ持った体に不自由さを募らせていて、
「SF映画や攻殻機動隊みたいに、テクノロジーで体を更新する時代に早くなんないかな」
と思っていた。

原始に戻りたいYちゃんと、さっさと未来に行きたいわたしとの対立構造で、かなり熱っぽく持論を言い合った。あれは確か夜中のガストだったかココスだったか。雨が降っていた。
鮮やかな多色のネオンが水たまりに映って、「サイバーっぽいな」と思ったのを覚えている。

Yちゃんは、かつて実際にその世界に行きたくて、一度自然派の人たちが集まる有名な集落で生活をしてみたそうだ。
そして、惜しくもそこはやりたい仕事が成立する環境ではなかったために、泣く泣く仕事を選んで出てきたというわけだ。

やりたいことと環境が一致しないなんて、確かに竪穴式住居からかっちりスーツの会社員は難しいのかもしれないけど…と当時驚いてみたけれど、驚いたのは絵的なインパクトに対してだけであって、
わたしだって結局、大方そうだったのだ。
一致しないことだらけだったじゃないか。
それで悩んでばっかだったじゃないか。

そうなると、成立しないならしないなりに、すり寄る中間点を見つけるしかない。

Yちゃんは当時あれだけ持論を白熱展開させたほどだから、その後苦労したのかもしれない。しかし、いまは良い塩梅の中間地点を見つけられたようである。
もちろんそれは、青森という自然多い土地柄が可能にしたのではないかと思う。
(竪穴式住居には住んでいません)

ところで、このところ、Yちゃんは異様に元気があった。
それはコロナ禍による自然回帰の流れのためかなと推察する。わたしはYちゃんに今年、青森の自然のことを教わった。攻殻機動隊時代早く来いと言っていたわたしが、である。

そして、わたし自身も変化があるような気がする。
それは前記事でも書いたもどかしさの改善について。遠地でのネット配信。来て、ではなくて、届けるという意識など。
不自由なる体をここに置いたまま、ネット(電脳)で仮想空間につながるなんて、そこで体験を共有できるなんて、なんとも攻殻機動隊っぽい、いやどちらかというとマトリックス。首にプラグは挿してないけどさ。

つまり、数年前のわたしたちの会話、理想が、いま思わぬ形で実現に近づいている。
こういう事象って名前、なんか付けておきたいね。

自然とともに仕事を成立させたい。
遠地との距離感をなくしてほしい。
思えばこれまでも、完全に不可能ではなかったのだ。できる人は実行していた。
そうしたいという人数が今年の春あたりにドッと増えた。
個々の思いが社会変化となるまでは、コロナ禍レベルのインパクトが必要になる。このインパクトのさらなる変化は、のちに「◯◯革命」と名付けられるのだろうか。


ガストだったかココスだったか、で、Yちゃんが特に熱弁したひとことを覚えている。

「実感てのを大事にしたいのよ。実感する、というのは唯一人間であるってことなんじゃないの? それだけは捨ててはいけないんじゃないの?」

あのときと、いまと、実感の定義すら少し変わってきたように思う。
例えば、バーチャル竪穴式住居で生活して実際にそれを「実感」したと明言できるということだって、起きてくるのかもしれない。
それが、わたしとYちゃんの中間地点なのだろうか。

だが今は、森に行って風にふれ、草の葉に触れることをまだ「実感」と呼んでおきたい。
当時Yちゃんが感じ、伝えたかった畏怖を、ちょっとだけわたしも今感じるのだった。



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のようにたくましく(inむつ市)。
お互いにすっごい体、掻きむしり合っていた。



展示会は明日までとなっております。
東京Bunkamura Box Gallery
「イラストレーターが挑む寺山修司の言葉」展

挑んでいる。












# by loopmark1210 | 2020-10-21 14:05 | 日常記
もどかしき、のこれから
地方を拠点としてるので、いつも東京の展示に参加させていただくときは、気にして見てくださる方はいるんだろか、と漠然と思う。
そんなとき、友からの行くよ報告はとても嬉しい。
しかしやはり拠点ではない場所というのは、霧の向こうに届けるような心許なさがあって、こればかりは慣れない

と、企画展開始前の10/15のTwitterで書いておりました。

あれから、お友達やお仕事で知り合った方、尊敬する方から〈見てきましたよ報告〉をいただきました。
わたしはたぶんこの豪華なメンバーの中で、かなりな「誰やねん」状態なのではないかと思います、情報としても。

どうも、細々と描いてるものです。

本州最北端住まいということもあって、遠征で知り合った方と存分に交流を図れない。
なんとももどかしいと思い続けてきた。
むしろこのもどかしさは、活動を始めてからずっと思考テーマのひとつになっているくらい。
面白い企画が開催されてもすぐには行けない。エキサイティングが通り過ぎていく、ああ、もどかしきことこの上なし!

交流が十分にできてない申し訳なさを抱きながらも、〈見てきましたよ報告〉をいただくと、ああ、行ってくださったんだ…と一瞬しんみりとなり(恒例申し訳なさ)、じわじわと嬉しくなり、お会いしたい思いは募る。

でもこの頃は「Zoomでも参加できますよ!」という新展開もあって、これはまだ未体験なんだけど、とてもワクワクしている。
一度行ってみたいイベント企画がネット配信を開始したり、演劇やライブもそうなったり、もどかしさを打開する可能性がこんな機会に広がるとは思いもしなかった(もうへそ曲げなくてもいいのかしら)。

ただね、同時に足を運んでいただくことは、ほんとに当たり前でないと思ってるんですよ。
自分がなかなかできない分、そう思います。
そして、もうそれは十分貴重なことであるように思えるし、さらに貴重なことになっていくような気がします。

見ていただいてありがとうございます。
木曜日までどうぞよろしくお願いします。


貝とか布の装飾、青森から行ったスタッフさんが記念館で展示した際の写真を見ながら設置してくれました。ありがとう。
動画も送ってくれて、そのうちそれを貼りたいんですけれども、
このブログ、動画対応してないみたい。

このブログ自体が閉塞感…??
もどかしきブログ。。

もどかしき、のこれから_f0228652_01441142.jpg
もどかしきときはブラックカフェインパンチ







# by loopmark1210 | 2020-10-21 01:14 | 日常記
両親に似たお二人に会った。
両親に似たお二人に会った。
と言っても、彼らはわたしより年下で、なんならわが両親よりもずっとしっかりしてらっしゃる雰囲気をお持ちなのだけど。

「わたし、運転できないので、移動は夫頼りなんです」
この地方の町で車を使用できないというのは、なかなかの不自由ではないだろうか。すぐにそう思ったが、
お二人はご夫婦でひとつの事業をされているから、生活時間はいつも一緒、車が必要となれば旦那さんがいつでも出せる状態なのだ。

わたしの母も車の運転はできなかった。
というか、自転車に乗ることもできなかったくらい、「なにかを操る」ということを苦手としていた。
しかし、母と父は同じ事業を運営していたので、やはり移動はいつでも父によって解決されていたのだ(あとはバス)。


話を聞いて珍しいな、と思いながら、すぐに車内での様子が想像できた。

母と父、二人で前の席に座り、子どもにはわからない仕事のことを、いつもより低めの声でひっそり話し合っている。
時に嬉しそうに、時に眉間にシワをよせ、時に思い切り仲違いをしながら。

子どもたちは後部座席の隙間から、その様子をさりげなく繊細に察知する。
そして、ひとつの会話が終了した間合いを見計らうと、さぁいまだ!とばかりに、アニメのテーマなんかを歌い始める。
母は驚いて振り返るが、もうその顔は働く事務のひとではなくて、馴染み深い日常の顔に戻っているのだ。

こうしたオンオフが、わたしたち子どもによって時に切り替えられることを、わたしたちは楽しんでいたように思う。
もちろん、単に歌いたいから、というのもある。

二人は「両親」以外に、なにかしらの共同体で、それはどうやら難しさを伴うものらしい。
そんなことを、わたしは幼少期、父の運転する車の中で覚えたような気がする。

そして、父と二人で出かけるときなどに、母のものである助手席に座れるというのは、ひとつの特権のようで嬉しかった。
わたしもその共同体の一員になれた気がして、得意げになったのだ。


別れの挨拶をして外に出ると、仕事回りのための荷物を積んだ白いミニバンが、玄関の前に寄せられていた。
わたしの先ほどの想像は、さらに具体的な外観を得たことになる。

微笑ましく眺めながら、自分の車に乗り込んだ。

ふと、もう一度、叶えられたらいいのにな、と思う。
助手席に座った母の後ろ姿。
わりにしっかり記憶に残っているけれど、もう一度後部座席から、なで肩の彼女を見つめてみたいなと思うのである。

両親に似たお二人に会った。_f0228652_17095902.jpg
陶芸進捗。

ところでミニバンって全くミニじゃないのに、なんで「ミニ」ってつくのだろう。
ずっとジムニー(軽自動車)的なものを想像していた。


参加している企画展が木曜日までです。
趣味がこうじて作った寺山修司ブローチ、ラス1という連絡だけをスタッフさんよりいただきました。ありがとうございます。

渋谷Bunkamura Box Gallery
「寺山修司の言葉展」


# by loopmark1210 | 2020-10-20 16:34 | 日常記
近代&現代文学
現代小説、読んでみたいんだよね」と、ふいにLINEでやりとりしたのは、真夜中のことだった。
驚いたことに友人は次の日、出勤ついでにうちの玄関前のボックスに、袋いっぱいのオススメの本を置いて行った。

ということで、近代文学ばかり浸っていたわたしは一気に現代小説を読む流れに変わった。
しかも、彼女のセレクトではなぜか女性小説が多い。

いま、借りた本の七割ほどを読み終えたところ。
言葉というものは積み重ねる量が多いほど、じっくり染みていくのだな、と実感するのは、この短期間であっても、小説の影響を受けて女性としての自分について俯瞰的に考えるようになった気がするからだ。


川上未映子さんの「乳と卵」は、わたしからすると「よくぞよくぞ描いてくださった!」という感激ばかりだった。

文学的に優れているとか、そういうことはよくわからないが(樋口一葉リスペクトの文体は斬新だった)、
よくぞわたしたちが口に出さず秘めてひた隠しにし、偽の納得心で進むしかなかった孤独を書いてくださったと、自由にしてくださったと、心の中で盛大な拍手をしていた。

それは個人の胸に響くという意味で、小さな革命である気がしていて、
それが万人になったときに動いていくことを想像すると、シビれた。

作品発表から10年ほど経っている。
読後、川上さんのことを調べた。
川上未映子さんはやはり先頭に立って、広く広く目覚ましい活躍を見せてらっしゃった。
うお、シビれる。


近代文学の、もうこの世にいない先人たちの言葉に触れるとき、わたしはどこかで安心していたのだった。
彼らが言葉でもって巻き起こした社会的な動きは過去のものになっている。完結されている。
そうなれば、発掘する考古学のように、古きを知る中に自分個人だけが、沈黙の中で新しさを見つけに行けばいい。

けれども、現代にあって言葉をつむぐ、ということは、人を巻き込み、社会的な未来の動きを担っている、ということでもある。


このことを、わたしはずっと、今日の今日まで知らなかったのだった。

近代文学と現代文学、
この違いはとても大きいし、またそれゆえにこの行き来は想像以上に面白いことなのかもしれない。
そして、おそらく通底する部分にこそ、大いなるものがあるような…


これは、読書の楽しみというひとことで納めていい感覚なのだろうか。
なんだか、興奮している。


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練乳入りベトナムコーヒー


勢いで書いているので、わたしの文章、読みづらかったらごめんなさい。
上手くなりたいのだけれど。


渋谷Bunkamura Box Galleryでの「寺山修司の言葉展」始まっています。
木曜日までです、よろしければぜひ。









# by loopmark1210 | 2020-10-18 23:45 | 日常記
遠い空を見たよ
先日、感情的なひととの付き合いに疲れたという友人と、彼女の車の中でじっくり話した。
ともに遊びに出かけて家の前まで送ってもらったのだけど、なんだかんだいつもそれから一時間は語らいの時間となっている。

さっちゃんは感情的にならないから落ち着いて話ができる
と、彼女は言ってくれ、とてもとても嬉しかったのだが、
それは家族に感情表現の大きい(言い方を変えると激しい)ひとがいたからだけなのだと、その場でことわっておいた。
ある意味、客観視できることが自分にとってブレーキになっているだけなのだろう。
しかし、それはただブレーキに過ぎない。素質である感情の隆起は、やはりはっきり存在している。

内側から沸き起こることに、どう折り合いをつけていいかわからないときは頻繁にある。

「感情は引き出しのように、訓練すれば出し入れをコントロールできる」と、ベストセラー『嫌われる勇気』に書いていた気がする。

執念、執着を持たなければ、大きな起伏にはならないのだろうか。

面倒だなぁ、と思う。
人間というものは、まことに面倒である(誰
というか、自分自身が面倒である

もっと表現として、解放できるのではないか
と思うのだが、
ひとの絵ばかり描いているわたしは、直接な解放にはなっていない気がする。
ただその間の集中は、大きくわたしを助けてくれているので、平静なる別世界として役立ってくれている。


言葉にしてみることが一番かもしれない。
放り出されて活字となった言葉はどこまで正直であるか
いかようにも理解され、誤解され、
それゆえに実直さと精度を必要とされる
感情を材料にして、思考をもって感情をこねくり回して、
ひとまずわたしというものをとらえること
言葉から見えるわたしということ
その現象

こんなとりとめのない文章をしばらくは
書いてまいる所存でござる


(というか今までも、きっととりとめなかったはず…汗)


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遠い空を見たよ



来週16日より企画展に参加します。

「イラストレーターが挑む寺山修司の言葉」
2020/10/16(金)~10/22(木)
Bunkamura Box Gallery

わたしは足を運べないのですが、グッズをいくつか取り扱っていただきます。






# by loopmark1210 | 2020-10-10 22:06 | 日常記